生涯のハイライト

 1990年

キャンベリーのチャレンジャーに出場し、2回戦負け。

 

 1991年

プロに転向。オークランド チャレンジャーで、決勝に進出。オーストラリアの#1と#2のサテライトで、3位。

 

 1992年

リベイラと広東のチャレンジャーで準決勝戦に、そして、ホンコンのチャレンジャーで準々決勝に進出。クアラルンプール チャレンジャーでは、ホーと組んだダブルスで準優勝。

 

 1993年

インディアナポリス大会で、No.1のサンプラスを破って(生涯で初めてトップ10を破る)、ツアーで初めて準決勝戦まで進出。アプトのチャレンジャーで優勝、名古屋のチャレンジャーで準優勝。ビヨルクマンと組んだダブルスで北京大会の準決勝に進出、シェルトンと組んだダブルスでインディアナポリス大会の準決勝に進出。

 

 1994年

全仏で4回戦に進出。ホンコン大会で、生涯で初めて決勝に進出。マンチェスター大会で優勝。1994年のATP新人賞を受賞。生涯最高のNo.21のランキングを得る。アデレード、キービスケイン、シドニー大会で準決勝に進出し、東京、ニューヘブン。リヨン、アントワープの大会で準々決勝に進出。ボログナ大会でフィツジェラルドと組んだダブルスで優勝。ビヨルクマンと組んだホンコン大会とダムと組んだリヨン大会で準優勝、ビヨルクマンと組んだ東京大会、イバニセビッチと組んだクイーンズ大会で準決勝に進出。対ロシアでデ杯戦にデビューしたが、2戦共敗退。

 

 1995年

アデレード大会でいきなり準優勝し、全豪では、生涯最高の4回戦まで進出。トップ20に2週間ランクされる。5月には、プジョー ワールド チーム カップに初出場し2勝1敗の成績を上げる。ワシントン大会では、エンクビストを破り準決勝に進出、ロスアンジェルス大会ではベスト8。オクストラバとリヨンの大会では2年間ベスト8だったが、決勝まで進出。ダブルスでは、クーリエと組んでアデレード大会に優勝、フォージェと組んでオクストラバ大会で準優勝、いつものマーク フィリポシスと組んで出場した大会では3回連続で準決勝に進出。パットのダブルスランキングはNo.30でフィリポーシスとのペアのランキングはNo.20であった。生涯獲得賞金額は100万ドルを突破。手首の負傷のためにシーズンのほとんどを棒に振り、この年の最後の3大会も出場を取り止めざるを得なかった。そして、10月30日にカリフォルニア州のサンタ バーバラで右手首の手術を受けた。

 

 1996年

手術から復帰した第1戦のアデレード大会では、ノバチェクに破れ、メルボルンで行われたコロニアル クラッシックのエキジビションの試合でも、アガシに6―7、7―6、6―7で敗れた。全豪では、1回戦でリオスに勝ったものの、2回戦の対ハダッド戦の時に、負傷退場となった。サーキットに復帰したのは4月初めで、セーラムとバミューダの大会で2回戦の後、ローリング ロックの大会でベスト8となり、そして、コーラル スプリング大会では2回戦負けだった。全仏では1回戦負けだったが、グラス コートでは本領を発揮し、クウィーンズ大会でベスト8、ノッティンガム大会で2回戦、そして、ウインブルドンでは、生涯最高の4回戦まで進出した。いつものマークフィリポーシスと組んだダブルスは、全豪の1回戦に勝ったものの、彼の手首が悪化したために出場を中止した。サーキットに戻った際は、パット キャッシュとペアを組み、バミューダ大会で準優勝の後、ローリング ロック大会では優勝した。全仏では、フィリポーシスとのペアに戻して3回戦、そして、ウインブルドンでは準決勝まで進出したが、どちら共、ウッディーズに敗れた。パットは、最近、マーク ウドフォードと組み、ササ ハースゾンとゴラン イバニセビッチ組を破り、4―1よるクロアチアとのデ杯戦の勝利に貢献し、オーストラリアのワールド グループ残留に貢献した。

 

 1997年

パットは、アデレード大会で、アンドレイ チェルサコフとの問題の2回戦負けで、この年のスタートを切った。アンパイアがインとオーバールールした後、彼は、チェルサコフにポイントを与えた。彼は、スポーツマンであり、そのポイントを受け付けることが出来ず、試合に負ける方を選んだのだった。そして、シドニーの大会に初めて出場し、準決勝に進出して気を吐いたが、全豪ではドローに恵まれず、1回戦負けに終わった。しかし、2月にシドニーで行われたデ杯戦では、セットカウント0―2から、フランスのピオリーンに逆転勝ちを収める活躍を見せた。2月末から3月初めにかけては、決勝でサンプラスに負けはしたが、アドバンタ選手権で準優勝を遂げた。その後1ヶ月も経たない間に、再び、チェコとのデ杯準々決勝戦で、オーストラリアの5―0での勝利に貢献し、その1週間後には、ホンコンのサーレム オープンで決勝まで進出したが、惜しくもチャンに優勝を阻まれた。次いで、ジャパン オープンで準決勝、オーストリアの国際レイフェイセン グランプリで決勝に進出した。しかし、全仏は、この年のハイライトと言っていい活躍を見せ、リチャード クライチェクと同胞のマーク ウッドフォードを破って準決勝まで進出した。そして、2度優勝しているセルジ ブルゲラに屈したのだった。その1週間後に発表されたランキングで17位となり、パット キャッシュが1987年にシードされて以来オーストラリア選手として始めて、フィリポーシスと共に、ウインブルドン大会でシードされた。パットが第12シード、マークが第7シードとなった。クイーンズ大会では、マーク フィリポーシスと組んだダブルスで初めて優勝し、ダブルスのランキングで最高の10位となり、マークとのペアとしてのランキングも11位となった。7月のレッグ メイソン クラッシックは手首の負傷で出場を取り止めたたにもかかわらず、彼のランキングは自己最高の16位となった。USオープン直前のパイロット ペン大会とハムレットカップ大会で決勝に進出し、USオープン時にはランキングが14位となり、第13シードになった。そして、13シードの選手が初めてUSオープンに優勝するという快挙を成し遂げたのだった。彼のランキングはNo.3となり、彼の上には米国のマイケル チャンとピート サンプラスだけとなった。オーストラリアの全国民が、世界のスーパースターになったパットを祝福した。

 

 1998年

この年は、ホップマン カップが最初で、3試合共勝利を収めたが、アディダス インターナショナルでは、ディフェンディング チャンピオンのティム ヘンマンに準決勝で敗れた。
初めてシードされた全豪では、皆が彼の優勝を期待したが、3回戦で姿を消した。そして、ヨーロッパの遠征に出てベスト8と準決勝に進出した後、ミルデュラで行われたジンバブエとのデ杯戦のために帰国した。しかし、運悪く体調が不調のため、1試合に出場しただけで、その試合もバイロン ブラックに敗れた。次週のインドの大会には出場して元気である所を見せたが、続くクレーコートの大会では、2週連続の1回戦負けを喫した。全仏での出来も前年ほどではなく、同胞のジェイソン ストレンバーグに2回戦で破れた。クイーンズ大会では第3シードとなったが、再び、同胞のスコット ドレイパー(彼が結局優勝)に敗れた。しかし、オランダに移ってからは好調で、本年2個目のタイトルをものにした。グラス コートでの出来は良いように見えたが、ウインブルドンでは4回戦で、ティム ヘンマンに今年2度目の苦杯を喫した。米国のハードコートに移ってからは、昨年と同様の活躍を見せ、ニューヘブンの大会でギラウメ ラオに敗れるまで、トロント、シンシナティ等のスパー9トーナメントに連続優勝し、そして、ロングアイランドのハムレット カップに優勝した後、USオープンのタイトルを防衛したのであった。このタイトルの防衛は、ヒカム アラジとのフルセットの戦で始まったが、最後は、同胞で、かっての友人で、ダブルスのペアでもあるマークフィリポーシスを下して、2年連続の優勝を遂げたのだった。パットはすぐさまオーストラリアに飛び戻り、デ杯でのワールド グループ残留をかけて戦い、全試合に勝って、5―0によるオーストラリアの勝利に貢献した。