第一部:ディ・グレフェンとの出会い
〔第六章1987年ウインブルドン〕


                         
シュテフィ・グラフが1987年のウインブルドンにやってくるころには、この年無敗のフレンチ・オープン・チャンピオンとして彼女はWTAの真のスターになっていた。彼女のスターとしての輝きはドイツからヨーロッパへ、さらに世界中へと大きく広がっていった。彼女がどれほどのスターになるのかはまだ誰もわからなかったが、彼女とライバルのガブリエラ・サバティーニがクリス・エバートとマルチナ・ナブラチロワの後継者として次の時代をリードしていく予感は十分だった。

シュテフィ・グラフとボリス・ベッカーは1980年代の後半、ヨーロッパにおけるテニス人気の沸騰に計り知れない貢献をした。1987年の終わりには、ヨーロッパ大陸でテニスはサッカーに次いで二番目に人気のあるスポーツになった。ドイツではテニスクラブ人口は幾何級数的に増え、毎日のように新しいクラブがオープンした。90年代の初めには、シュテフィとボリスは世界中で最もよく知られたドイツのスポーツスターになる。

それなのになぜフランク・デフォードのような”尊敬される”スポーツ・レポーターがシュテフィのテニス界に対する貢献を否定的に言ったり書いたりするのだろうか。1995年のHBOのウインブルドン中継の間中デフォードはシュテフィがテニス界やWTAに対してほとんど何もしていないと言い続けた。

私はショックを受けたと同時に非常に腹立たしく思った。デフォードはアメリカで最もよく知られているスポーツ雑誌「スポーツ・イラストレイテッド」のレポーターなのだから、彼の言葉には誰もが耳を傾ける。それなのに、彼はシュテフィについてほとんど何も調べずに発言しているのだ。

シュテフィのヨーロッパでのテニス界に対する貢献はすでによく知られているし、裏付けられてもいる。東部ドイツには彼女の名前を冠したテニスセンターがあるが、彼女は統一後の旧東ドイツ地域におけるテニスの発展のためにそれを設立しただけでなく、その後も莫大な資金と時間をつぎこんでいる。イギリステニス協会の役員たちはシュテフィが常にオフコートでのテニス行事に協力的だと語っている。フランス人は彼女に高い尊敬の念を抱いており、彼女はいつもフレンチ・オープン前の週末に行われるチャリティに参加している。

1994年シュテフィはWTAチャンピオンシップスのACES賞にノミネートされた。ACES賞は年間を通じてテニスの発展に貢献しWTAによる多くのチャリティに協力した選手に贈られる。デフォードが言うようなテニス界やWTAに対してほとんど何もしていないような人物にこの賞が贈られるだろうか。

あるWTAの役員は最近私にこう語った。女子テニスは今、ほかのどこよりもヨーロッパで人気がある、と。これは99%シュテフィ・グラフのおかげだ。これを見ても、フランク・デフォードがシュテフィはテニス界に対して何もしていないなどという根拠はない。はっきりしているのはデフォードが何も調べずにいい加減なことを口走っているということだけだ。

1987年のウインブルドンが開幕した時、シュテフィは18歳の誕生日を迎えた直後だった。フレンチ・オープンでマルチナ・ナブラチロワを倒して初めてのグランド・スラム・タイトルを手にしてから一週間後のことである。フレンチに勝った後、シュテフィの生活は大きく変わった。ヨーロッパでの人気は天井知らず、ドイツの雑誌が25万ドルでヌード写真を撮らせてほしいと彼女に申し入れたという事実が明らかになって、彼女はイギリスのタブロイド紙のターゲットになった。シュテフィのコメントは?「私がそんなことをするだろうと彼らが考えたということ自体、私にはとても信じられません!」

シュテフィは1985年以来二年ぶりにウインブルドンに姿を見せた。1986年の夏の前半はずっと病気だった。しかし、1987年、彼女はこれ以上ないくらいに体調はよく、年の初めからの39連勝で自信も最高潮に達していた。彼女のふるまいや物腰、彼女の歩き方にさえこの少女がどれだけ自分を信じているかがうかがえた。

対照的にディフェンディング・チャンピオンのマルチナ・ナブラチロワは1974年の最初の優勝以来初めて、その年ひとつのタイトルもないままにウインブルドンを迎えることになった。マルチナは自信を失っていた。彼女はすでにこの年二度シュテフィに敗れている。ことにリプトンでの惨敗はマルチナに精神的なダメージを与えていた。今や彼女はクリス・エバートよりも強大な敵が現れたことを自覚せざるをえなかった。それは、シュテフィ・グラフだった。

トーナメントが始まる最初の月曜日、ウインブルドン名物の雨が降り続き試合の開始が丸一日ずれこんだ。そのために女子のトップシードの選手たちは水曜日までプレーできなかった。

シュテフィの一回戦の相手はアルゼンチンのアドリアナ・ヴィラグランだった。ヴィラグランはクレーコート・スペシャリストで、事実、三週間前のフレンチではマルチナ・ナブラチロワから1セットを奪っていた。しかし、芝で彼女がシュテフィに太刀打ちできるとは誰も考えていなかった。まごつくヴィラグランに片っ端からウイナーを浴びせ、30分と少し、6−0,6−2でグラフが勝った。それは二年間芝でプレーしていないシュテフィに対する疑いを吹き飛ばし、眠っていた女子テニスを目覚めさせるウエイクアップ・コールになった。

二回戦でティナ・ショイアー−ラーセンはもっと早く徹底的な負けを喫した。6−0,6−0、シュテフィの圧勝だった。次は数年後にツアープロのハインツ・ギルデマイスターと結婚したラウラ・アラヤ、彼女は6−2,6−1で屈した。四回戦までシュテフィには競ったセットさえ無かった。

シュテフィと同い年のチェコ人ヤナ・ノボトナは、芝に最も適した美しいサーブ・アンド・ボレーで粘り強い戦いを挑んだが、それでも6−4,6−3で敗れた。この勝利は多くのファンにシュテフィが芝での力を確実に増していることを印象づけた。

そして、少なからぬイギリスのテニスマニアたちが、シュテフィと最初の女子グランドスラマーであるアメリカの偉大なチャンピオン、モーリン”リトル・モー”コノリーとの驚くべき類似性についてささやき始めた。

BBCのコメンテーターであるダン・マスケルは二週間のあいだ何度も、シュテフィのゲームだけでなく、ちょっとした癖までもが彼にリトル・モーを思い出させると言った。決然とした歩き方、プレーに取り組む時の真剣で妥協を許さない姿勢、そしてもちろんふたりのアスリートをトップに押し上げたすさまじい破壊力を持つフォアハンド。

第二週目の火曜日が巡ってきたころには、ほとんどの人々がシュテフィとマルチナ・ナブラチロワの決勝をはっきり予感するようになった。マルチナは彼女のドローをシュテフィと同じように勝ち上がっていた。クリス・エバートはマルチナと同じヤマに入っていたが、ロス・フェアバンクのようなグラスコート・プレーヤーの厳しい抵抗にあって、困難な戦いを強いられていた。シュテフィにとってはガブリエラ・サバティーニ、パム・シュライバーがマルチナとの決戦の前にある壁と思われた。

シュテフィとガビー…なんて響きのいい名前だろう。彼女たちの顔合わせがWTAの役員たちにどれほどの希望を与えたことか。ふたりの鋭いコントラスト、かたや金髪、かたや黒髪、旧世界対新世界、双方ともに静かでシャイ、しかし、その時点でふたりはWTAの未来だった。

シュテフィはガビーとの試合がやさしいものにはならないないことがわかっていた。彼女はまだ一度もガビーに負けたことはないが、ほとんど試合はいつも3セットにもつれこみ、それらはふたりの関係に少なからぬ影響を与えていた。彼女たちは子供のころからお互いを知っており、シュテフィが感情的にも精神的にもリーダーではあったが、ダブルスのパートナーでもあった。

1987年のウインブルドンの準々決勝はまたしてもふたりのクラシック・マッチとなった。だが、いくつかの変化もあった。ガビーはファーストセットで目を見張るようなプレーを見せた。シュテフィのストロークに対してガビーのバックハンドから強烈なウイナーが放たれ、一時間以内に彼女が6−4でこのセットを取った。しかし、続くふたつのセットでガビーは完全に崩れてしまい、グランドストロークのリズムを取り戻したシュテフィがペースをつかんで6−1,6−1で取った。

ガビーのファンの多くはあのころ、ガビーが1セットはあれほど素晴らしいプレーを見せるのに、それが次には全く消え去ってしまうのはどういうわけなのか理解できずに困惑していた。はっきりしているのは彼女が疲れ切ってしまうということだ。しかし、またどうして?彼女はプロのアスリートとして第一級のフィジカル・コンディションを保っているはずだ。それなのになぜ一時間にも満たないプレーでエネルギーが枯渇してしまうのか?

数年後、ガビーは地中海性の貧血という診断を受けた。これは地中海地方に住む人やその地方に住んでいた人を先祖に持つ人たちに特有の貧血で、最近では、ピート・サンプラスも同じ種類の貧血であるとの診断を受けている。

木曜日、さらに確固とした自信を身につけたシュテフィはアメリカ人のパム・シュライバーと並んでセンターコートに現れた。ふたりの姿は対照的だった。173cm、 53kgのシュテフィは182cmでもっと体重のあるシュライバーに対し、とても小さく見えた。1987年当時、パムはシングルスではこの先もグランドスラム・タイトルはとれそうもないが、マルチナ・ナブラチロワと組んだダブルスでは史上最強のペアとして歴史に名を残そうとしていた。

長らくトップテンプレーヤーとして活躍したパムはWTAのひとつの顔でもあった。しかし、彼女はかんしゃくを起こして自分の言動をコントロールできないことがままあった。これまでもパムはシュテフィを含むほとんどすべてのWTAのメンバーを一度ならず怒らせたり、いらいらさせたりしたことがあった。

1985年、彼女たちの間ではいくつかの出来事があり、ふたりの関係を緊張状態に陥れた。実際、1985年のウインブルドンでのシュテフィの最後の対戦相手はパムだったが、それは楽しい経験ではなかった。また、1985年のフィルダーシュタットでのパムとの試合中の出来事もシュテフィには苦い思い出を残し、以後、彼女はこのトーナメントに出場しようとはしなかった。

1987年の準決勝の顔合わせの背後にはいろいろと興味深い伏線があったのだが、それはシュテフィが驚異的なパワーテニスの威力を見せつけて1時間足らず6−0,6−2で終わった。テニスのゲームが好きなファンにとってもそれはおそらく忘れられない試合だっただろうが、グラフのファンにとっては本当に素晴らしく、彼女がこれまで以上に圧倒的な力をを見せてくれた試合だった。

パム・シュライバーの弁護をするなら、彼女がその試合ではかなり疲れていたということを述べておかなくてはならない。彼女は準決勝の前の二試合で長い困難な戦いを強いられれ、シルビア・ハニカとヘレナ・スコバに対してどちらもファイナルセット10−8というきわどい勝ちをおさめてきたのだ。しかし、ウインブルドンでのこの日、彼女はシュテフィと同じレベルではなかった。

試合後のプレスとのインタビューで、試合のターニングポイントとなったのはどこかと聞かれたパムは簡潔にこう言った。「あそこへ出ていった時よ!2ゲームしか取れずに負けるなんてまったく屈辱以外の何物でもないわ。とりわけ、ケント公夫人やダイアナ妃がいらっしゃる前なんかでね」。パムにとってはこういう日だったのだ。

こうして、ずっと期待され続けた試合が実現することになった。マルチナ・ナブラチロワは準決勝でクリス・エバートを3セットの接戦の末破っていた。この決勝には双方ともに大きなものがかかっていた。マルチナが8回目の優勝を飾れば、ウインブルドンの最多優勝者ヘレン・ウイルス・ムーディーの記録に並ぶことになる。シュテフィが勝てば彼女は世界ナンバーワンになる。若い挑戦者が芝最強の女王に挑むのだ。イギリスのおとぎ話にぴったりの素材ではないか。

ふたりがセンターコートに入ってきた時、誰もが最高に素晴らしい試合が見られるものと予想していただろう。残念ながら、異常に膨れ上がった期待は、一時間ちょっとでシュテフィにいくつかの教訓を残して終わった。

まず、彼女は自分自身の品位をどう保つかを学んだ。観衆のシュテフィへの応援に誇りを傷つけられたマルチナはこう叫んだのだ「何だっていうの。私はドイツ人なの?」。それは明らかに40年以上も前に終わった戦争の記憶をイギリス人に思い起こさせようとする企てだった。

また、彼女はウインブルドンのディフェンディング・チャンピオンがタイトルをかけて戦う時には、世界中で一番手強い相手になることも学んだ。そして芝の上で左利きのマルチナに正確なスピンサーブをバックサイドに入れられれば、それに対処することが極めて難しいことも。

ふたりのプレーヤーの傑出した才能がきらめいた試合だった。マルチナはほとんどミスをせず、ボレーの出来が素晴らしかった。シュテフィはブレーク・ポイントを落としたがいくつかのすごいショットで試合を再びイーブンにし、驚くべき度胸の良さを見せた。

しかし、彼女のウインブルドン初制覇の夢は7−5,6−3で瞬く間に終わってしまった。マルチナはその年初めてのタイトルを手にし、シュテフィは初めての敗戦を味わった。信じられないことだ。マッチポイントの後、ネットに歩み寄ったシュテフィはにこっと笑ってマルチナにたずねた「あとどれだけ勝ちたいと思っているんですか?」。マルチナは答えた「できるだけ多くよ」。

後でマルチナは試合中に「神様は自分の方に向いている」と思ったと言った。というのもネットコードが常に彼女の味方になってくれたからだ。すべてのミスショットがうまい具合にコートに落ち、シュテフィは冷静さを失っていった。彼女はマルチナについて、「おそらく史上最高のチャンピオン」と言い、「でも私はまだ18歳、次に戻ってくるまでには芝コートでの自分のプレーにもっと磨きをかけてくるつもりです」と述べた。

ふたりの偉大なチャンピオンが世界で最も尊敬され神聖視されるコートで戦った最初の試合は終わった。しかし、これが最後ではない。

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