第一部:ディ・グレフェンとの出会い            
〔第四章1987年春〕


シュテフィはトーナメントというトーナメントに勝ち続けて1986年をしめくくった。彼女は九月にパン・パシフィック・オープンのために日本へ飛び、そこからヨーロッパへ戻ってチューリヒのヨーロピアン・インドア、イギリスのブライトンに出場し、三大会で、マニュエラ・マリーバ、ヘレナ・スコバ、カタリナ・リンドクイストというトップテンプレーヤーを倒して優勝した。シュテフィは今最も注目のプレーヤーとして、シーズン最終戦のバージニア・スリムス・チャンピオンシップスに乗り込んできた。

しかし、彼女のここでのプレーはぱっとしないものだった。シュテフィはずっと風邪をひいていて調子が悪かった。ロリ・マクニールとの一回戦は3セット6−2、準々決勝のマリーバ戦は同じく7−5と間一髪で切り抜け、スコバとの準決勝でも3セットを強いられた。マルチナ・ナブラチロワと決勝で対戦するころにはシュテフィはすっかり疲れ切っていた。ナブラチロワとシュテフィの対決は注目の的だった。誰もが二人のこの前の対戦、素晴らしく興奮させられたUSオープンの準決勝を覚えていた。

ファーストセットは接戦で当然のようにタイブレークにもつれこんだ。しかし、マルチナはまるで元気がなくなってしまったシュテフィをやすやすとうち負かした。そし て続く2セットもシュテフィは簡単に手放してしまい、女子のトーナメントの中で唯一の5セットマッチに3セットで負ける結果に終わった。

シュテフィは1986年を64勝6敗で終えた。このうち3敗はナブラチロワ、2敗はエバート、1敗はマンドリコワという1980年代前半をリードしたビッグ3相手に喫したものだった。非常に素晴らしい一年だったが、これも1987年の快挙にくらべればささいなものとなる。

バージニア・スリムス・チャンピオンシップスの後、シュテフィは二月までツアーに出なかった。冬の間をドイツとフロリダで過ごし、彼女のプレーに幅を持たせるためのトレーニングに励んだ。そして、春にツアーに帰ってきたときにはその成長ぶりは目覚ましいものがあった。

しかし、このために彼女はシーズン最初のグランドスラム大会であるオーストラリアン・オープンを欠場することになった。彼女は1984年、一回戦でエリザベス・スマイリーと対戦中に転んで右手の親指を骨折して以来、オーストラリアにはまだ一度も行っていなかった。

彼女のシーズン最初の大会はバージニア・スリムス・フロリダだった。この大会はフロリダの小さな町ボカラトンで行われ、ほどなくシュテフィはアメリカでの自宅をここに構えることになる。

シュテフィはボカラトンで五試合を戦い、わずか22ゲームを失っただけだった。そのプレーぶりは実に印象的で、シュテフィ自身も数週間後のリプトン選手権に向けていい感触をつかんだようだった。彼女は第3シードだったが、その週の最新ランキングで二位に上がり、とうとう世界ナンバーワンをうかがえる位置につけた。今やそれは時間の問題だった。

そのころリプトンは七試合制をとっており、グランドスラムに最も近いものだった。試合ごとにシュテフィは調子を上げた。準決勝での彼女のプレーはみごとなものだった。対戦相手はまたもやマルチナ・ナブラチロワ。これはシュテフィにとって興味深いシチュエーションだった。最近の二回の対戦ではいずれもマルチナが勝っている。試合がマルチナにとって全部たやすいものだったわけではないが、それでも彼女はなんとか勝っていた。シュテフィはそれほど自信満々だったわけではなかったかもしれない。

準決勝は曇って、とても風が強い日だった。強風がコート上を吹き荒れた。マルチナはその風に苦しみ、彼女のフォアハンドボレーはことごとくネットにつかまった。シュテフィのフォアも強風にうち砕かれるかに思えたが、それは的確にターゲットをとらえた。試合は一時間足らずで終わった。6−3,6−2、シュテフィにとって最も自信を深めた勝利となった。

シュテフィはファイナルでもクリス・エバートを6−1、6−2でマルチナとの試合よりも短時間で圧倒した。このふたつの勝利はシュテフィにとって感情的にも精神的にも計り知れないほど重要なものだった。

彼女はオープン化後の時代において最も偉大な二人のチャンピオンを続けて簡単に破ったのだ。そして、世界中のテニスのプレスにも次のグランドスラム大会で彼女が暴れ回るに違いないということを強烈に印象づけた。このふたつの勝利がテニス界に与えるインパクトをクリス・エバート以上に感じていたものはいなかっただろう。彼女は準優勝スピーチでこう語った。

「私はシュテフィとプレーするときは、よく彼女には明るい未来があると言ったものでした。今や私はシュテフィの現在、過去、未来がとても輝やいていると言わなければなりません。彼女はマルチナを破ってきました。マルチナがコンピューター上ではまだナンバーワンですが(観衆が笑い出す)もう実質のナンバーワンはシュテフィです。あの勝利が彼女にとってどんなに大きな意味を持っていたかはシュテフィの瞳を見ればわかります。願わくば私に対する勝利も彼女にとって大きな意味を持っていますように。私は心からシュテフィにおめでとうを言いたい。私は彼女のショットほど激しいものを知りません。多くの男性プレーヤーとも練習をしましたが、彼らさえこんな強いボールを打ちません。シュテフィのプレーは本当に素晴らしいものでした」

準決勝での敗退はマルチナをきりもみ状態に追い込んだ。彼女は春の間中苦しみ、一勝もあげることなく夏のグランドスラム大会に入っていかなければならなかった。そして、クリスがシュテフィに勝つことは二度と無かった。

リプトンからシュテフィは彼女にとってシーズン最初のクレーコートでの大会である南カリフォルニアのヒルトンヘッドに向かった。彼女が初期の成功を納めたとはいえ、クレーはシュテフィにとって決して好きなサーフェスではない。性急さと大変機敏なことはシュテフィのパーソナリティの一部だが、この性質はクレーのゆっくりとした重いプレーには適していない。

1987年のヒルトンヘッドは興味深い大会だった。女子テニスの若い才能のショーケースになったのだ。準決勝でシュテフィは彼女の長い期間にわたるライバルであり同僚でもあるアルゼンチンのガブリエラ・サバティーニと顔をあわせた。ふたりは二年以上に渡ってダブルスのパートナーでもあった。それはいくぶん常識はずれな関係といえた。ふたりとも度を超した恥ずかしがり屋として知られており、お互いにひとこともしゃべらず、一時間もロッカールームに座っていたというのだ!

実際、サバティーニはこう言ったことがある。「私たちふたりについて言うなら、シュテフィのほうがシャイよ」。とはいえ、彼女たちはツアーで恐れられるダブルスデュオになるのに十分なコミュニケーションはとっていた。ふたりのシングルスにおける対戦は常に接戦だった。

かってのツアープロであり、現在はテレビのコメンテーターをしているジョアン・ラッセルは、同じ年代の選手とやるのは誰にとっても厳しいものだと語ったことがある。トレーシー・オースチンにとってもアンドレア・イエーガーにとってもそうだった。おそらくシュテフィとガビーにとってもそうだったのだろう。

彼女たちのヒルトンヘッドでのセミファイナルはキャリアを通じてのふたりの多くの対戦の典型的なものになった。シュテフィは二時間を越す戦いの末、6−3,2−6,7−6(7−5)で勝った。そして決勝でもう一人の同年代選手マニュエラ・マリーバと対戦し、これもまた激しい戦いの末、6−2,4−6,6−3で優勝した。

ヒルトンヘッドからシュテフィは彼女の最も好きな大会の一つであるアメリアアイランドへ戻ってきた。大きな樫の木に囲まれたアメリアアイランドのセンターコートは世界中で最も美しいコートのひとつである。小規模で親しみのある環境で行われるトーナメントを常にシュテフィは愛した。翌年からの数年間はこの大会でさまざまな困難に直面することになる彼女だが、1987年は圧倒的な勢いで勝ち上がり、ヒルトンヘッドの時とほぼ同じメンバーだったにもかかわらず5試合で17ゲームしか失わなかった。

決勝でシュテフィと対戦したハナ・マンドリコワの試合後のコメントは「シュテフィがこれほどのハードヒットを続けるなら私たちはいったいどうしたらいいんでしょうか!」というものだった。

アメリカの春のトーナメントシーズンが終わり、シュテフィはその年出場したすべての大会で優勝していた。

シュテフィはヨーロッパに戻った。とはいえ、それはドイツではなくイタリアだったが。イタリアン・オープンは最も常識はずれなトーナメントだ。ここのファンは世界中のどこよりも騒々しい。イタリア人を先祖に持つガブリエラ・サバティーニはここで女神のようにあがめられていた。

シュテフィは決勝でガビーと対戦したが、これは彼女にとって耳障りでうるさく、不幸で不快な経験になってしまった。試合はこのふたりのライバルの典型的な一戦となり、シュテフィはファーストを7−5で取り、セカンドを4−6で失った。

イタリアの観客は大声でサバティーニを応援し、ファイナルセットに入ったころにはシュテフィをののしることさえ遠慮がなかった。それはシュテフィを怒らせただけだった。彼女は疲れの見え始めたサバティーニに対して明らかにプレーのレベルを上げ、ファイナルセットを6−0でしめくくった。

翌日、ローマのテニスライターはもっと残酷で、サバティーニを「ラ・ベッラ(美女)」、シュテフィを「ラ・ブルッタ(ブス)」と引き合いに出したのだ。ドイツのプレスは反撃に出た。一人のイタリア人ライターの「じゃがいも面のドイツ人」という表現がとどめの一撃になった。

それはドイツではヘルムート・コール首相さえ巻き込んだ国民的事件となった。首相は「シュテフィは我々の誇るドイツの少女だ」とコメントを寄せ、ドイツのマスコミはすべてのドイツ人にイタリアでのバカンスプランをキャンセルすべきだと呼びかけた。シャイな十代のシュテフィにとってこの騒ぎは非常に困惑するものだった。その結果、以後十年に渡って彼女は再びローマに向かうことがなかった。

続く週におこなわれたジャーマン・オープンでシュテフィは、途方もない歓迎を受けた。彼女が決勝で同じドイツのクラウディア・コーデ−キルシュと対戦した時でさえそれは変わらなかった。シュテフィはもうひとつ優勝を手にして無傷のままサマーシーズンを迎えた。

シュテフィの勝利は祖国における彼女の人気を決定的なものにした。その凄さは、彼女のコーチであるチェコ人のパベル・スロジルがその夏の終わりに「今やシュテフィのドイツでの人気はボリスを上回っていると思うよ」と述べたほどだったのだ。

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