第一部 ディ・グレフェンとの出会い                                   
 〔第二章1986年春〕

 
 1975年9月3日 トロフィーとともに 6歳のシュテフィ
               Photo by Werek

 
1986年の春、私はテレビ画面を通してだったが、シュテフィに再会した。あのころフロリダのボカレイトンで開かれていたリプトンインターナショナル選手権決勝をABCが中継していたのだ。シュテフィ対クリス・エバート・ロイド。テレビカメラはふたりが狭い通路をいっしょに歩いてコートに入ってくるところを映し出していた。私はUSオープンの後、七ヶ月間でのシュテフィの成長ぶりに驚いた。背が伸び、いっそうスリムになって子供っぽいぽっちゃりした感じはすっかり消えていた。シュテフィはエバートより頭半分背が高くなっていたのだ。鍛えあげられたしなやかな筋肉、彼女はこれまで以上に驚くべきアスリートになっていた。

テニスコメンテーターでジャーナリストでもあるメアリー・カリロはかつて、シュテフィはテニスプレーヤーにとって完璧なボディの持ち主だと言ったことがあったが、神がこれほどの贈り物を与えたとは、神様はきっとシュテフィに口づけしたに違いない!

この日シュテフィは敗者だった。クリッシーが勝ったというよりはシュテフィが負けたのだ。やや辛抱が足りず、彼女はフォアハンドでのアウトが余りにも多すぎたが、それにしてもなんというフォアハンドになっていたことか!そしてサーブ?!鋭さと力強さを増し、シュテフィのサーブは確実にコーナーをとらえた。クリッシーがシュ
テフィのサーブに手を焼くようになるのもそう先のことではないだろうと私は思った。

それからわずか数週間後、シュテフィは再びファイナルでクリッシーと顔をあわせた。今度はヒルトンヘッド。シュテフィがクリッシーへの初勝利をクレーであげるなんて誰も予想していないことだった。クレーは彼女が最初の成果をあげたサーフェスだが、どちらかというと苦手としていたのではなかったか?

ヒルトンヘッドの勝利はシュテフィがリプトンのファイナルで学んだ結果だった。忍耐。クリス・エバート・ロイドよりしんぼう強くプレーすること。これは恐ろしく骨の折れる仕事だ。ことにティーンエイジャーにとっては。しかし、シュテフィはより堅実にクリッシーのショットに対抗し、ファーストセットを6−4で取った。シュテフィがクリッシーから生まれて始めて奪ったセットでもあった。

だが、アメリカの観客はまだこれを正しい警告とは受け取っていなかったようだ。NBCのコメンテーター、ジョアン・ラッセルは言った。クリッシーからひとつセットを取ることと二つ目も奪うこととは違う、と。

セカンドセット、クリッシーは4−0と大きくリードしていた。クリッシーがドイツからきた子供を粉砕するのは確実だと誰もが思った。しかし、シュテフィは断固として踏みとどまり、ひとつ、またひとつ、とそれから5ゲームを連取してしまった。クリッシーはなんとかそのセットを5オールにしたが、シュテフィは自分のサービスをキープし、次のクリッシーのサービスを破って試合に決着をつけた。シュテフィは飛び上がり、天を仰いで、うれしさのあまり泣き出した。待ち望んでいた瞬間がとうとうやってきたのだ。シュテフィは当時世界第三位だったが、1986年ヒルトンヘッドのファミリーサークル・カップまで一度もプロツアーで優勝したことがなかったのである。

数年後、USオープンで今にもグランドスラムに手が届こうとしていた時がこれまでで一番プレッシャーを感じた経験かとたずねられ、彼女はこう答えている。「私はもっと厳しいプレッシャーを感じたことがあります。とりわけドイツのマスコミから。私がトッププロでありながらずっとプロのトーナメントで優勝できなかったあの頃ね」

シュテフィは破竹の進撃を開始した。アメリアアイランドでの決勝は彼女のキャリアの中で最も精神的にタフな試合となった。確かにアメリカ人の観衆にとっては最高に面白い決勝戦というわけではなかった。ドイツナンバーワンのシュテフィが同じドイツ人で世界ランク五位のクラウディア・コーデ−キルシュと戦うのだから。ふたりともあまりいいプレーができず、試合は二転三転した。ファイナルセットでシュテフィはスタンドの父親からのコーチングのペナルティをとられ、プレーが中断した。

あのころコーチングは一番ホットな問題だった。明らかにそれはルール違反だが、ヨーロッパ人たちは無視すべく努めていたようだ。つい一週間前、ボリス・ベッカーがペナルティを取られ、今度はシュテフィだった。怒ったペーター・グラフはスタンドからおりてきてWTAのツアー・ディレクターであるリー・ジャクソンにかみついた。シュテフィはそのゲームを失ったがタイブレークに持ち込み、脚のけいれんに襲われながらもなんとか勝利をものにした。しかし、その後何年もの間、グラフ家とWTAの関係はぎくしゃくしたものになった。

そこからインディアナポリスに飛んだシュテフィは、ダブルスで勝つためにチームを組んでいるにすぎない十代のライバル、ガブリエラ・サバティーニを破った。

ドイツへ、そして故郷へ。それはシュテフィにとって凱旋だった。彼女の環境も変わった。ドイツを発ったとき、彼女はまだ大きな可能性を秘めた将来の有望選手にすぎなかった。しかし、クリス・エバート・ロイドに勝ち、アメリカで三大会を制して戻った今、シュテフィは自他ともに認める本物のスターになったのだ。生活はシュテフィにとってもっと難しいものになった。彼女はどこへ行っても注目の的だった。かつて彼女は常にボリス・ベッカーの陰で大衆の好奇の目を逃れ、静かで心地よい環境の中、自分自身のペースで成長することができた。1986年春、すべては変わってしまったのだ。

ベルリン・オープンはシュテフィが好きなトーナメントのひとつだ。彼女はもうひとりの女子テニス界のスター、マルチナ・ナブラチロワとファイナルで対戦できることに気づいて興奮をおさえきれなかった。シュテフィはマルチナに勝つどころか、接戦に持ち込んだことすらなかったが、この数ヶ月の間にすっかり自信をつけた彼女は自分自身に言い聞かせた。「いつか勝てる、いつか、きっと」

日本でのトーナメントから飛んできたマルチナは明らかに少し疲れていたが、シュテフィがどんなに凄いスコアで対戦相手をなぎ倒しているかを考えないわけにはいかなかった。発表されるスコアは彼女の名前と同様すっかりおなじみになった。6−1,6−0…6−0,6−1、試合時間の平均は一時間をはるかに下まわっていた。

マルチナはサーブアンドボレーのいつものスタイルを変えなかった。しかし、レッドクレーは彼女が最も苦手とするサーフェスである。シュテフィの目の覚めるようなフォアのドライブパスが次から次へと決まった。ついに最後のゲーム、観客たちの興奮はピークに達していた。われらの新星が史上最強の女子プレーヤーをまさに倒さんとしている。マルチナはいらだっていた。すべてのものが神経にさわり、自分を見失ってしまうほどの大声をあげた。熱狂的なファンはマッチポイントのプレーが始まろうとしているときでさえ興奮の叫びを抑えられない。

マルチナは表彰式の間中泣いていた。シュテフィはマルチナの気持ちを察してマルチナがコートを去るまで派手な喜びようはみせなかった。だが、祝賀パーティーで満面に笑みを浮かべたシュテフィ、彼女が激しく振った大きなシャンパンボトル、弧を描いて飛び出したシャンパンのきらめき、を私は忘れることができない。

彼女は23連勝をひっさげて1986年のフレンチ・オープンに乗り込んできた。コメンテーターたちは彼女を優勝候補の最右翼にあげたし、ロッカールームでも彼女が最初のメジャータイトルを取るに違いないという言葉がささやかれていた。不幸にも(シュテフィにとってパリではいつものことになるのだが)彼女はひどいアレルギー症状に見舞われていた。数年後、ある医師がシュテフィに言った。医学的には不適当なのかもしれないが、彼女の症状ははまさに「パリアレルギー」と表現するしかないと。

彼女は緒戦を圧倒的な強さで勝ち上がっていったが、準々決勝でハナ・マンドリコワと対戦する日は39度の熱を出し、体調は最悪だった。ファーストセットはシュテフィが簡単に取ったが、老練なハナはセカンドセットに粘りを見せ、シュテフィを長く激しい戦いに引きずり込んだ。シュテフィはせき込み、あえぎ、ティッシュひと箱をほとんど使い切ってセカンドセットを失った後はもう何をする力も残っていなかった。ハナは手際よくファイナルセットを取って勝ち、シュテフィの連勝とグランドスラム大会初制覇の望みを断ち切った。

シュテフィは驚異的な春の連勝の間、いくつかのアメリカのマスコミの取材を受けていた。私は可能な限りすべての記事を読み、シュテフィと彼女の家族背景、彼女の人となりについて理解しようと努めた。母のハイジ・グラフさんが心配して、もっと外に出なさいと励ますほどシュテフィは家に閉じこもってばかりいる、という記事には笑ってしまった。招待されているティーンエイジャーのバースディパーティーへ出席するようハイジさんがシュテフィを説得しても、耳障りなやかましい音楽にがまんできないと言って、1時間かそこらで彼女はパーティーを抜け出して帰ってきてしまうというのだ。内気で人見知りが激しく、特に幼い頃はごく内輪の人といっしょにいる時だけがリラックスできたらしい。まだ知り合ってもいないこの少女から受けた私の第一印象は、間違っていなかった。
                                 

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