第一部 ディ・グレフェンとの出会い
〔第一章 1985年〕


故国ドイツで、彼女は「ディ・グレフェン(女伯爵)」として知られている。もちろんこれは「グラフ(ドイツ語では”伯爵”を意味する)」という彼女の姓を女性名詞にした言葉遊びなのだが、シュテフィの強さ、勇敢さ、気高さにこれほどふさわしい称号はないだろう。

私はシュテファニー・マリア・グラフより20年早く生まれたことを喜んでいる。グラフがテニス界で頭角を表し始めたとき、私はすでに自分が見ているものを正しく評価できるだけの年齢に達していた。「ほとんど望みがないと誰もが思っている時、彼女はそれをはね返して勝利をつかむ」 シュテフィ・グラフのテニス人生こそこの言葉の典型である。

私が初めてシュテフィを見たのは彼女が16歳の夏だった。1985年、彼女はUSオープンの三回戦で下位ランカーのアメリカ人アン・ホワイトと対戦していた。ホワイトはテニス界での実績よりも、前年のウインブルドンのナンバーワンコートに真っ白なレオタード姿で現れて役員たちを仰天させたことで有名だった。

私はシュテフィについて、ドイツの「ヴンターキント(神童)」の一人だと聞いてはいたがそれ以外に何も知らなかったし、テレビ画面を通してさえ彼女を見たこともなかった。

しかし、二人の試合はグランドスタンド・コートで行われることになっていたので、私はその朝早めにでかけてできるだけコートに近い席を確保した。なぜかこの試合が私の興味をかきたてたのだ。
 
ホワイトは背が高く、優雅とは言えないが魅力的だった。彼女は風邪のせいか絶え間なく鼻をかみ、せきこんで、いらだっていた。シュテフィは長い子馬のような脚と豊かな金髪のやせっぽちの少女だった。彼女のバックハンドはそのほとんどがスライスであるという点を除いては平均的なレベルだった。

しかし、彼女は機会さえあればバックへのボールのほとんどをまわりこんで逆クロスに打ち込んだ。観客の中でテニスにくわしいものはみんな目を見張り、これは非常に素晴らしいショットだと気づいた。
 
アン・ホワイトはすべての戦略をつくして冷静なシュテフィを打ち負かそうと試みた。しかし、短気なホワイトはシュテフィのアカデミー賞級の勝利のパフォーマンスを助けただけだった。6−4,6−2、1時間あまりでシュテフィが勝った。
 
ネットに向かいながら、いらだっているホワイトを前にしてシュテフィは視線を落としていた。なんてシャイな子だろう。シュテフィはチェアへと歩きながら、手すりから身を乗り出してサインを求めている若者たちをちらっと見あげた。この瞬間、私はこの少女がゲームに対して感じている純粋で完全な喜びがわかった。もしかすると、それは同じような性質だからかもしれないし、そうではないのかもしれない。しかし、その日私を魅了するプレーヤー、人物が私のなかに生まれたのは確かだった。
 
数日後、シュテフィは再びグランドスタンド・コートに戻ってきた。この時の対戦相手はアメリカの上位ランカー、パム・シュライバーだった。ふたりが準々決勝の試合を始めた時、その日はその年のニューヨークで最も暑い一日になっていた。ニューヨーカーがこれは凄い試合になると思った時はいつものことなのだが、スタンドはぎっしりいっぱい。猫の子一匹入るすきも無かった。
 
実際、シュテフィとパムの準々決勝はすさまじいものになった。何度も邪魔は入った。頭上を横切っていく飛行機、レストランから飛んでくる紙ナプキン、なんとカモメまでコートに降りてくる始末。

しかし、誰も席を立たなかった。シュテフィがファーストセットのタイブレークを取ったとき、観客席を興奮のざわめきが走った。世界ナンバー3がとんでもないフォアハンドを持つドイツのやせっぽちの子供に負けてしまうのか?
 
蒸し暑い午後の空気の中で、セカンドセットもファーストセット同様緊迫した戦いとなった。ウェアは汗でぐっしょり濡れ、彼女たちに重くまとわりついていた。観客たちは水をかけ、日焼け止めを塗り、折り畳んだプログラムであおいで汗みずくの顔に風を送った。

セカンドセットのタイブレークでシュテフィは続けて三つのアンフォースドエラーを犯し、それは彼女の十代の自信を揺さぶった。もうひとつのエラーは、彼女がフラストレーションからボールをたたきつけたせいだった。私はシュテフィがコントロールを失ってしまうのではないかと思った。

パムは素早くアドバンテージを取り、セカンドセットをものにした。セカンドセットのセットポイントを取った時、パムはスタンドのコーチを振り返り、勝ち誇った叫びをあげた。

シュテフィはチェアに戻って、手短にタオルを使い、少し水を飲み、それからしばらく宙を見つめていた。私はシュテフィが微動だにせず座っている間、すぐそばで彼女を見ていた。彼女は自分の考え、次にコートに出たとき何をするべきなのかという自分のプランを確認しただけだった。私はこのように完璧なコンセントレーションをこれまでに見たことが無い。

審判がコールする前にシュテフィは立ち上がり、ベースラインへと歩き出した。彼女はつま先立ちで踊るようにゆるやかに右に左にと身体を揺らした。彼女の右腕の筋肉は彼女がラケットを握る動きにあわせて引き締まった。パム・シュライバーは今や試合を自分の手に握ったと思っていたかもしれない。しかし、シュテフィの断固とした落ち着きを見た者なら誰でも別のことを考えただろう。

試合時間は焼けつくような暑さの中でやがて二時間になろうとしていたが、誰も席を立たなかった。ファイナルセットはあらゆるドラマと興奮に満ちていた。

パムはセットの途中にリードを奪って5−3としたが、ネットダッシュとシュテフィのパッシングショットとの長い戦いでけいれんをおこし始めていた。シュテフィはそのゲームと続くゲームをもぎ取り、突然試合は振り出しに戻った。パムは今にも爆発しそうだったが、ふたりとも感情を押さえ込んで三度目のタイブレークに向かった。

シュテフィは最初、少し気持ちを集中できず、パムが3−1,4−2とリードした。しかし、彼女は突然目ざめ、信じられないようなパッシングショットを両サイドにたたき込んで5ポイントを連取し、試合を決めた。

汗でびしょ濡れのふたりはネットをはさんで短く握手を交わした。シュテフィの顔は晴れやかに輝き、パムは表情を殺していた。パムはチェアに腰をおろすと頭からすっぽりタオルを被って、スタジアム中に聞こえるほどの大声でむせび泣いた。

私はカメラマンに取り囲まれて座っているシュテフィを見た。パムの泣き声はシュテフィを責めさいなんでいた。彼女は、とまどったような居心地悪そうなまなざしをちらっとパムの方へ向けた。

誰にもわからないことだが、おそらく彼女はこの日自分に約束したのだ。この試合以来、彼女が敗れて泣くことはなくなった。少なくとも公衆の面前においては。シュテフィが泣くのは勝った時だけなのだ!

準決勝でシュテフィはランキングナンバーワンのマルチナ・ナブラチロワに手際よく、あっという間にやられてしまった。マルチナは彼女のパッシングショットに対する予測力がどんなに素晴らしいものかをシュテフィに教えた。そのうえ、マルチナはシュテフィのファーストサーブとセカンドサーブ、とりわけセカンドサーブをいとも簡単にたたいた。

シュテフィはサービスとパッシングショットに磨きをかけるという誓いを胸にトーナメントを去った。誰も彼女の言葉を疑うものは無かった。この少女の上にははっきりとチャンピオンの印が見て取れたからだ。

この年のトーナメントから戻ったとき、私は自分がかつてないほど、そしてたぶんこの先も二度と無いほど熱心なテニスファンになっているのに気がついた。もっと正確に言うならばシュテフィのファンに! 

私はこれまで新聞で試合結果を読む程度にはテニスをフォローしていた。しかし、今や毎日熱心に記事やスコアを隅々まで読んでシュテフィはどうなっているのかを知ろうとするようになった。

もちろん情報は決して多くない。試合結果はときどきあちこちに、でも、コメントは本当にごくわずかだった。というのもアメリカのスポーツライターはこの有望なドイツ人プレーヤーについて記事を書くだけの価値があるとは考えていなかったのだ。あのころ何かドイツ人について書かれたものがあれば、それはボリス・ベッカーだった。

私はシュテフィがUSオープンのあとフォートローダーデイルでのハードコートトーナメント、リンダ・カーター・メイベリンに出ているのを見つけた。彼女は難なく決勝に勝ち進んだが、もう一方のヤマを勝ち進んできたのはマルチナだった。マルチナは再びシュテフィのサービスとパッシングショットの弱点を見せつけ、6−3,6−1で勝った。

フォートローダーデイルの後、フィルダーシュタットのインドアアリーナでプレーするため、シュテフィはドイツに帰った。シュテフィはキャリアの初めからずっとこのトーナメントに出場していた。実際、1982年、13歳のシュテフィはここでプロデビューを飾った。アンラッキーなドローで、一回戦、当時世界ランキング一位のトレーシー・オースチンに6−4、6−0で敗れたのではあるが。

1985年のフィルダーシュタット、シュテフィは準決勝でパム・シュライバーと対戦している。ふたりが顔をあわせるのはあのUSオープンでの信じられないような準々決勝以来のことだった。

緊迫した試合はファイナルセットに入り、パムはシュテフィとの差を埋めるためにおどけたしぐさをみせるようになった。パムはシュテフィをからかい始め、彼女のプレーをあざ笑った。観衆はそれにひっかかって、パムといっしょに笑い、彼女の動作をまねた。

シャイなティーンエイジャーをこれ以上困惑させ、傷つけるものはなかった。シュテフィはこの日コートで起こったことを決して忘れなかっただろう。数年後、彼女とパムは和解したが、シュテフィがフィルダーシュタットに戻ってくることは二度となかった。

シュテフィの1985年最後の試合はブライトンでの二回戦だった。彼女はそこでイギリス人の手強いサーブアンドボレーヤー、ジョー・デュリーに6−2,6−3で瞬く間に負けた。

またもやシュテフィはサーブアンドボレーヤーに圧倒され、サービスとネットに出てくる相手への対策の強化という決意を胸にトーナメントを去った。彼女は冬を家で過ごし、新しい年の初めの数ヶ月はツアーをスキップするつもりだった。練習、また練習。この数ヶ月のシュテフィの努力は彼女自身さえ予想していなかったほどの成果をもたらしたのだった。



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