幼年時代
マイケルは、1972年2月22日に米国のニュージャージー州ホボケンで生まれたが、幼い頃から聞き分けがよくて大人びていたことを、祖父母や両親も認めている。生後8ヶ月の時、祖母が、サマータイムのために食事時間を固定しないで寝かせようとしたが、彼女が目を醒ましてみると、マイケルは泣かないで指をしゃぶりながら待っていたとのことだ。4才の時、マイケルは転んでほおを切り、病院に運ばれたが、動転している母親を逆に慰めたとも言われている。
かれは、ポパイのように強くなりたいと思って、手当たり次第に野菜を食べ、テレビコマーシャルに刺激されてミルクをがぶ飲みしたことがあった。
彼のお気に入りの玩具としては、トンカ トラック、テディ ベア等があるが、これらは、今でも、大事に保管されている。そして、散髪に行くと、いつも、スーパーマンのような髪型にしてくれと頼む子だった。
少年時代
ニュージャージーからミネソタ州セントポールに移ったが、兄のカールと共に、マイケルはすぐその地になじんた。そして、大勢の友達と一緒に、彼らが「秘密の池」と呼んでいた池に、よくオタマジャクシを取りに行ったものだ。9才のカールが、6才のマイケルに、ピンポンのプレーの仕方を教えながら、テニスの基本を教えたのも、このミネソタ時代のことであった。
マイケルが、早熟の他に目立ったものに、勝負に対するこだわりの強さがある。8才の時、父親に試合で負けると、怒ってラケットを折ってしまった(彼がラケットを折ったのは、後にも先にも、この1回だけだが)。そして、後になって、勝負強さを自分に有利に展開する方法を身につけたのだった。2年生の時、"clothes"のスペルを"close"と間違えて、スペルのテストに失敗した日、学校から家に帰ると、2度と間違わないように、300回も、clothesと書き続けたとのことだ。
マイケルは、カールとよく争いごとをした。枕の投げ合い、魚釣り、母親の作った中国だんごの食べ競争等である。
カリフォルニア ドリーム
マイケルとカールがミネソタの試合を制するようになってから、チャン一家は、カリフォルニア州サンディエゴに移った。マイケルは、新しい環境と新しい学校に適応しなければ、ならなかったが、彼とカールがテニスの試合でことごとく相手を叩きのめすので、たちまちのうちに、「ザ
チャン ギャング」と言われるようになった。 そして、10代に入ったマイケルとその一家は、プラセンチア近くの分譲住宅に落ち着くことになった。
しかし、マイケルは、ミネソタやサンディエゴの昔の仲間達を懐かしがっていた。というのは、学校では、アジア系の人はほとんど居らず、皆のグループに入れなかったからである。しかし、彼は大学に行くことを目指していた。テニスで奨学金をもらって、好きな生物学を学ぼうと。
16才の時に、リーボックとプリンスがスポンサー契約を申し出た時から、マイケルの人生は劇的に変わることとなった。マイケルは、自分の大目標であったテニスに打ち込む一方で、もし、テニスがうまく行かなかった時には、大学に行こうと考えていた。その翌年の1989年に、全仏のチャンピオンになるなんて、知る由も無かったのはもちろんだ。